こんにちは、エンチャイルドの広報担当、地球村山歩です。

 異文化間交流におけるポイントの一つに、相手の文化的背景を知り、そのことを理解して交流するということがあると思います。

 文化的背景とは、大きくは相手の国の歴史と伝統文化、すなわち宗教(精神伝統)だと考えます。さらに、言語(国語)や文化・芸能、法制度や政治制度、経済観念や商慣習なども…。相手の国の地理を知ることも大事ですね。

 スタディーツアーではフィリピンの歴史に少しでも触れてもらいたいと考え、短い時間でも歴史博物館の見学や歴史的な名所の観光をプログラムに入れるようにしてきました。リサール公園やイントラムロスに立ち寄るのもそのような理由からです。

 このブログでも、フィリピンの皆さんとの交流を深めていくに当たって、フィリピンの歴史や伝統文化を紹介できたらいいなと思っています。
 
 フィリピンの歴史を知ってみると、ホセ・リサール(1861~1896/享年35)という人物の重要性を感じるようになるでしょう。ホセ・リサールについては当ブログでも何度か紹介しましたね。

 ホセ・リサールは、フィリピンの革命家、医師、著述家、学者で、フィリピンの独立運動の精神的思想的支柱となったことから「国民的英雄」と称されています。先述のリサール公園は、ホセ・リサールの名前を取って付けられた公園名です。

 ホセ・リサールは1カ月半ほど(1888年2月28日~)日本に滞在していたことがあります。
 
 その証しとして、日比谷公園の一角にホセ・リサールの胸像を見ることができます。胸像と共にある碑文には、「フィリピンの国民的英雄ホセ・リサール博士1888年この地東京ホテルに滞在す」をあります。
 碑文は生誕百年の1961年6月19日に、胸像は日本滞在百年の1998年に建てられました。

 山歩は、日比谷公園に行く機会がある時にはできるだけホセ・リサールの胸像のある場所にも立ち寄るようにしています。
 先日(11月15日)も、秋が見たくて日比谷公園を訪問した際に立ち寄ってきました。

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 きょうは、ウィキペディアに掲載されているホセ・リサールの日本滞在期間に関する記述を引用して紹介します。

 ホセ・リサールの日本滞在は短いものでしたが、下記の記述からも、彼は日本での滞在期間中、思い出深い、密度の濃い時間を過ごしたのではないかと想像します。

日本滞在

 二度目の目的地もヨーロッパだったが、前回とは異なり、日本とアメリカ合衆国を経由して向かった。1888年2月28日にリサールは横浜に到着し、駐日スペイン公使館邸や日比谷の東京ホテルに宿泊し、2か月間滞在した。
 本来は経由地として、船の乗り継ぎのために2日間滞在する予定だったが、スペイン公使館に滞在中、近所で見かけた元旗本で貿易商の娘「おせいさん」こと臼井勢似子(1866-1947)に声をかけたことにより親しくなった。
 英語とフランス語がある程度できた勢似子とリサールは、二人で歌舞伎を見物に行ったり日光や箱根に逗留し、リサールは日本の文化と言葉を学びつつ、滞在は延びて二か月近くに及んだ。
 リサールは生前、勢似子のことを誰にも話さなかったため、その存在は知られることは無かったが、没後にリサールの遺族が遺品を整理した際、勢似子の写真が一枚発見された。また、日記には「あなたのように私を愛してくれた人はいなかった」と記されていた。
 勢似子もまた、誰に話すこともなく、所有物はその後の太平洋戦争の空襲被災で多くを失ったために、残る文物もほとんどない。後述されるリサールの死は日本でも多く報道された。
 その翌年の1897年、勢似子は30歳で英国人男性アルフレッド・チャールトン(学習院大学講師)と結婚、1947年(昭和22年)に80歳で亡くなった。
 現在、雑司ヶ谷霊園に勢似子の墓があるが、毎年リサールの誕生日にフィリピン大使館により花が供えられている。

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ホセ・リサールの肖像画(山歩撮影/2012年6月19日)
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「おせいさん」の肖像画(山歩撮影/2012年6月19日)

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